Yamate254

横浜・山手にある服飾資料博物館<岩崎ミュージアム>スタッフによる情報告知用HPです。

プロフィール

1964年 川崎市に生まれる。1990年 和光大学人文学部芸術学科卒業。現在、横浜市鶴見区在住。スケッチ40%を主催。舞台美術の制作を皮切りに、抽象具象、平面立体を問わずジャンルをクロスオーバーしながら制作活動を行っている。…その為、「専門は?」と問われるのが一番の弱み。近年はこの岩崎ミュージアムをはじめ、川崎市市民ミュージアム、郡山市立美術館、いわき市立美術館などでワークショップの講師を数多くつとめるほか、横浜市教育文化プログラムの一環で、小学校への出前造形教室を行い、美術の楽しさを広める活動にも力を入れている。

COLUMN 2024

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薫風

日本民家園(川崎市多摩区)

2024年5月

 
 朝起きて新聞を取りに外へ出ると、ジャスミンの香りが鼻をかすめる。玄関先に植えたジャスミンが今年はたくさん蕾をつけた。ジャスミンの脇ではツツジの廻りをアゲハ蝶がひらひらと舞っている。
アトリエ側にあるバラと梔子はこれからだが、我が庭の春はそろそろ終わりが近く、バラが咲く頃にはもう初夏の色合いに染まっていることだろう。
あいにくバラに詳しくない。四季咲きの品種だと思うのだが、咲き初めは黄色と濃いピンクで、しばらくすると淡いピンクになる。夏と秋、暖冬だと冬場も咲いたりする。一時は病気と害虫で随分弱り心配したものだが、見事に立ち直った。
 部屋に戻り何気なくテレビのスイッチをつけると、聴き慣れたメロディーが聞こえてくる。スティーブ・ライヒの『18人の音楽家のための音楽 Music for 18 musicians』。昨年来日したコリン・カーリーグループによる演奏。ホールは初台のオペラシティーだと思う。客席はほぼ埋まっている印象で、ライヒの曲を聞きに駆けつける聴衆の存在は心強い。
ライヒと言えば、岩崎ミュージアムで個展を開いた六島芳朗くんのBGMがライヒだった。
 番組の放送予定を見ると、明日もライヒのプログラムが組まれていて、こちらはパーカッショニストの加藤訓子のソロ。ぜひ聞かねば。
 春の気温は三寒四温で、日々の寒暖差が大きく風邪を引き易いと言うが、母親がいるアトリエと自分の家の温度差の方が春の気候より激しく辛い。
歳を取ると寒がりになるのか、アトリエの暖房は始終付けっぱなし。しかもガスヒーターだから殊の外暖かい。一方我が家は寒い。暑がりと言うわけでもないが、真冬でもあまり暖房を使わない。日中は2階にいることが多く、陽が差せば本当に暖房がいらないからだ。
 光熱費を比較すると、母親が使うガス代だけで、我が家の電気代+ガス代の2倍以上、真冬だと3倍くらいある。…。
 
 4月29日から銀座で個展が始まるため、この原稿を前倒しで書いている。〈注1〉
 今回は、昨秋旅をしたポルトガル北部のミーニョ地方の街、ポンテ・ダ・バルカとヴィアナ・ド・カステロ、それにポルトガル第二の都市ポルトと首都リスボン、リスボンから日帰りで行ったサンタレンの風景が主題だ。
 「風景」と書いたが、おそらく、「今年は人が多いですね!」と言われるに違いなく、それくらい人物が登場する。ポルトやリスボンだとどうしても人を描くのを避けることが出来ないというのもその理由の一つだが、それ以上に街角に佇む人の何気ない仕草につい目が行ってしまう(ストーカー?)…云々と説明することになるのだろう、きっと。
 
 4月のスケッチ会は川崎の生田緑地にある日本民家園に行った。雨降りの予報が外れて爽やかな日になった。
 日本民家園は1967年に開園し、現在25棟の、主に東日本の古民家が生田丘陵に集められていて、最寄りの駅は小田急線の向ヶ丘遊園駅。バスは本数が少ないので歩くのだが、だらだらとした上り坂を12~3分も歩けば着く。少し遠いが登戸からも歩けないことはない。
 描いたのは飛騨白川郷の合掌造りの家。もともと川崎の小川町にあった料亭を再移築したものだそうだ。いまは、蕎麦屋になっている。ここの蕎麦は一番粉で打つ「更科」だが、山梨県の忍野の水を使って打つらしい。もちろん蕎麦屋を目の前にしてその蕎麦を食さないわけには行かない。当然もりそばを頼む。それも二枚。事前に食券を購入しなければならいのだが、あいにく細かいお金の持ち合わせがなく、帳場に座っているおばあさんに両替を頼むと、手が滑ってお札を勘定出来ずに、「年取ると指紋がなくなるのかね…」と笑う。
 若い子達が目に付くが、自分の目の前では黙々と温かい蕎麦を啜る外人さんがいて、食べ終わると「ごちそうさまでした。」と丁寧に挨拶をして出て行った。
 

2024年4月28日 齋藤 眞紀

 
 


注1 『齋藤眞紀展~ポルトガルを旅して~』2024年4月29日(月)~5月11日(土)※初日は13:00より、最終日は14:30まで。日曜日休廊。
於:ギャラリー惣、中央区銀座7-11-5徳島新聞ビル3F
tel:03-6228-5507
http://www.gallery-sou.co.jp
 

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白い町で

Campo dos Mártires da Pátria(リスボン)※

2024年4月

 
 桜の見頃が4月にずれ込み、それを目当てに出かけるつもりがその機会を逃してしまったというのもあながち嘘ではないのだが、個展の仕事と雨とで、どうしてもスケッチに出る算段がつかなかった。
 リスボンの中心を縦に貫くリベルダーデ大通りの裏道からケーブルカーで丘に上るとすぐJardim de Torelという公園がある。ここはスケッチ40%の仲間と初めてポルトガルを訪れた折、帰国前のわずかな時間を利用してひとりで散策に来た公園であり、その帰り道で雨が降り、足下に気を取られて道に迷い途方にくれかけたという思い出深い場所でもあるのだが、その当時は木々が伸び放題で見晴らしが悪く、手入れの行き届かない薄暗く淋しい公園だったのに、およそ13年ぶりに再訪したJardim de Torelは、入口に洒落た噴水を設え、視界を遮っていた木々が短く刈り込まれて眺望の効いた、日当たりが良い公園に生まれ変わっていた。
 Jardim de Torelを出て右へ行くと、さらに規模の大きなCampo dos Mártires da Pátriaがある。もちろんリベルダーデ大通りのメインは丈の高い街路樹が鬱蒼と連なる遊歩道になっていて、その先ではいまのリスボンを築き上げたポンバル侯爵の銅像がリスボンの街を望んでいるのだが、さらに侯爵像の後陣は26ヘクタール、およそ東京ドーム5.6個分もあるエドアルド7世公園と、リスボンの街はとにかく緑が多い。リスボンの旧市街は多分に洩れず観光客が多いのだが、それが気にならないのはこの緑の多さ故ではないかという確信があり、それに大抵の公園でキオスクを見かけるので、街歩きに疲れたときなどにコーヒーやビールを飲めるのが嬉しい。〈注1〉
 Campo dos Mártires da Pátriaからアロイオス地区へ降りて行く階段の踊り場に一本の木が生えている。木が先か階段が先かは分からぬが、とにかく見事に木を避けて階段が作られている。絵を見てもらえばわかるように明らかに通りづらい、それでも誰も文句を言わない。
 これが日本だったら、まずこの木は切られてしまうだろう。日本の自治体は木を切ることに情け容赦がない。外苑の再開発に反対の声が多いのもだから頷ける。もちろん横浜市もその例外ではなく、開港記念広場から大桟橋へ伸びる街路樹を無惨に切ったし、今も瀬谷の海軍通りの桜並木を伐採しようとしている。〈注2〉
 ポルトガルに通うようになったきっかけが13年前の迷子事件だった。いまなら目を瞑っても歩ける道順を、その当時は地図もなくスマホも無くで、勘を唯一の頼りに歩こうとしたのが間違いの元だったのだが、そのおかげでリスボンの街に親近感を覚えるようになったのだ。
とにかく待ち合わせ場所へは戻らなければならない。とりあえず添乗員に電話をして事情を説明するが頼りになりそうにない。そこでたまたま居合わせた警官に英語で道を尋ねたところ真っ直ぐ行って最初の角を左だというのだが、それでも不安は消えず、少し歩いた先の、キオスクにもたれかかってスマホをいじっていた女の子にもう一度道を聞く。しかし、英語を喋れないのか驚いたのか、なんとキオスクの中に隠れてしまったのだ。あらら…と思っていると代わりにお婆さんが出てきてポルトガル語で説明をし始める(おいおい)。その当時はポルトガル語のポの字も知らないから、当然意味がわかるはずもない。それでもお婆さんが一生懸命だからこちらもお婆さんのポルトガル語と真剣に向き合わざる負えない。ところがだ、しばらく聞いているうちに分からないはずのポルトガル語で不思議と道順が飲み込めたような気がしてきたからおかしなものだ。
 昨年、その近所に宿を取った。13年前のお礼をしようとキオスクを探し歩いてみたのだが、残念ながら見つからなかった。もっとも、もうあのお婆さんの顔を覚えてはいない。〈注3〉
 

2024年3月30日 齋藤 眞紀

 


 

※今月の絵はアルシュ紙に油彩で描いている。
注1 ポンバル侯爵は国王ジョゼ1世の宰相で、1755年のリスボン大震災で壊滅したリスボンの再建を担った。
注2 こちら特報部「伐採やりすぎちゃうか」(東京新聞3月10日付朝刊)/「樹木を守ろう」全国で連携ー外苑再開発見直し運動がきっかけ(東京新聞3月21日付朝刊)
なぜ東京の緑は減るのか「本当に公園は緑を増やすのか」https://onumaseminar.com/assets/GraduationPapers/06th/hanai.pdf
注3 不思議と最初に道を聞いた二人の警察官の顔はいまでも覚えているのだが…。
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春告草〈注1〉

大倉山公園梅林

2024年3月

 
 
感性は思考なしにはあり得ないのに、考えないことが感じることだと思っている人が
たくさんいる。〈注2〉
 
久しぶりに日本語の本を読んでいて、本を読むのがこんなに楽だったかといまさらながら思うのだが、それもつい最近までフェルナンド・ペソアの『不安の書(Desassossego)』を読んでいたものだから、なおさらその思いが強い。
ペソアの『不安の書』をポルトガル語で読もうとしたことは、いままでも何度かあった。だが、いつも冒頭のPREFÁCIO(序言)を読み終えるか終えないかくらいで挫折していたものだから、原書で800ページ余りの分厚い本を、ちゃんと理解出来たかどうかは不問に伏すとしても、とりあえず最後のページまで読み通したというその事実だけでも大変な進歩だと、自分をほめなくもない。
と言っても、いま読んでいるのが多和田葉子の『カタコトのうわごと』という、彼女が若い頃に書いたエッセイ集で、《すらすらと読めてしまえる作品、それが色々な過程を経て「書かれた」ものであることを感じさせない作品を読んでいるとタイクツ。》と本人が書く以上これもそんなにやさしい本ではない。
 
ある日の授業中の一コマ。
「先生は私にいつも厳しい。」という声を皮切りに、「私にも厳しいと思います。」「いえいえ私もそうです。」とあちこちから火の手が上がる。
「大丈夫、みんなに公平に厳しくしているから、問題ありません。」
「先生は自分に厳しくされたらどうですか?」
「…。」
「自分に厳しい人は他人には優しいと言います。」
「…。」
と、一向に火の手が収まる気配がない。
最近は「褒めてください。」というのが多くなって、とても面倒くさくなった。褒めるときは褒め、叱るときは叱るで良いはずなのだが。〈注3〉
もちろん誤解のないように断っておくと、ここでは吊し上げを喰ってるわけではなく、みんな軽い冗談を飛ばし合っているだけなのだが、例えば模写の授業をするとする。昔なら比較的に楽だと思えるものを混ぜて選択の余地を残したものだが、最近はそれをしなくなった。だから、「この中から好きなのを選んでください。」というと、大概は絵の前でしばらく思案をし、「どれが一番簡単ですか?」とこちらに伺いを立てる。聞かれれば当然「勉強なのだから、難しいことをしないと意味がないでしょ!」と突き放すので、厳しいという声になるのも頷ける。
 
冷たい雨の日に昔馴染みの画廊で、「マキちゃんはまだ若いから。」「いやいやもう今年で還暦だよ。」「そういえば慎ちゃんも定年だって言ってたわね。」「同い年だよ。」「長い付き合いだからいつまでも若いと思っちゃうのね。」という話になった。
「マキちゃん」と呼ぶのは、自分が20代後半に銀座で知り合った仲間内のことが多い。小さい頃からの幼馴染は大抵「マキ」と呼び捨て。小学校に入ると「マキちゃん」で、高学年から「マキさん」が出てくる。「マキちゃん」の場合はアクセントが無いほぼフラットで「マキさん」は微妙にキに重心がかかっているか?
この「マキちゃん」と「マキさん」がどのくらいの比率か定かではないが、高校の同級生はほぼ「マキさん」で、もちろん先生や先輩は「マキ」。かなり少数派だが「マキくん」と「マキくん」というのも。
少し前に本人を差し置き、中学と高校の同級生の間で「マキちゃん」か「マキさん」かで論争を呼んだことがあった。しかしその正統性については当然結論が出なかった。
大学やバイト先では「斎藤くん」か「斎藤さん」だったがこのタイプは変化に乏しく面白味がない。最近は職業柄単に「先生」か「齋藤先生」と呼ばれることが多く、保育園では「マキ先生」。たまにこのバリエーションで重心がやや後ろ寄りの「マキ先生」もある。〈注4〉
 
東急東横線の大倉山駅を出てすぐ右手にある急な上り坂を登り、大倉山記念館の脇を抜けた裏手の谷間に梅林がある。早咲きから遅咲きまで幾種類もの梅の木が植わっていて、わりと長い期間梅を楽しめるのが良い。この梅林は、梅林に隣接する龍松院から東急が土地を買って作ったものだそうだが、今は横浜市の管理下にある。
2年ほど前のこのスケッチ月記で梅林から見下ろした龍松院を描いた事がある。いまでもこの辺りには畑が多く残り、都会の中にあってなお里山の風情が楽しめる貴重な場所になっている。
 

2024年2月28日 齋藤 眞紀

 
 


注1 春告草は梅の花のこと。
注2 『カタコトのうわごと』多和田葉子(新装版/青土社)
注3 『ほめると子どもはダメになる』榎本博明(新潮新書)
注4 こどもの頃から普段は「斎藤」と略字で通していたのだが、受験や公的な文章に署名するときだけはやはり「齋藤」で、ところが昔は結構緩かったから時々どちらを使ったかがあやふやになり怒られる。だから最近は「齋藤」で統一している。

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むかっ!

横浜外国人墓地

2024年2月

 
 小春日和の長閑な山手で…と書き始めたところ、ふと不安になり小春日和を調べてみたくなる。すると、旧暦の10月ごろ、つまり初冬のよく晴れて暖かな日を小春日和と呼ぶとあるではないか。何の事はない、書き出しからつまづいた。
 立春前のいまは《晩冬》と呼ぶそうだ。本来はこの時期が一番寒いはずなのだが、この冬は、陽射しの温もりを感じられればそれほど寒くはない。いつもなら、冬場は見かけることのないスケッチのグループも散見して、これも暖冬のお陰なのかもしれないと思う。
 先日の夕刊に載った直木賞作家のエッセイが面白かった。
 
 私と夫は滅多に喧嘩をしない。ふたりとも面倒くさいことがきらいで、「夫婦事なかれ主義」であるのと、どちらも自宅が職場で、原則的に24時間一つ屋根の下にいるので、喧嘩をすると非常にうっとうしいことになるというのが、理由としては大きいかもしれない。
 それでも年に1度か2度くらいは勃発する。たいていは、私が怒る。小さな「むかっ」や「ピキッ」はスルーするのが基本姿勢だが、どうしてもスルーできないこともある。〈注1〉
 
 喧嘩をするのも怒るのもパワーがいる。いちいち腹を立てたら切りがない。だから多少の「むかっ」や「ピキッ」には目をつぶるのが一番なのだが、それでも限度があって、ある日突然マグマが噴き出す。ここでは夫婦喧嘩の機微についての話しだが、人に物を教える場面でもそれなりに覚えがあるものだ。
 コロナの頃から、事務のスタッフの仕事を軽減するためにモチーフを組むのも片付けるのも講師の役割になった。モチーフを組むときはなるべく早く行く。授業が始まる30分前にはセットを終えることにしていて、少しでも余分に描く時間が欲しい生徒もいるだろうと思うからだが、それはそれで良い。
 問題は片付けるとき。こちらが片付けを始めても誰も手伝おうとはせず、先生を置いてさっさと帰ってしまう。一度講評の折に冗談混じりにその話をしたことがあって、流石に不味いと思ったんじゃないかな、夕方のクラスの生徒だけは率先して片付けてくれるようになった。みんなでやるから速い。ものの数分で終わる。ところがだ。他のクラスはいまだに何処吹く風で、「手伝っちゃいけないのかと思って…」と悪びれる様子もなく一向にその気がない。
 
 今回のスケッチは英国製のウォーターフォード(Saunders Waterfod)にQoR(コア/透明水彩絵具)で着彩している。ウォーターフォードの紙の表面は中目でも荒く見えるが、見た目とは裏腹に筆の滑りがとても良い。普段使うアルシュやセザンヌと比べると、拍子抜けするくらい滑らかに感じる。絵具の定着も速く、色の重なりがとても綺麗なのだが、反面色を動かしづらく滲みの微妙なニュアンスを作るのは苦手かもしれない。
 リフトは出来ないが、自分はほとんどリフトをしない…要するに失敗しないので、その点は問題がない。値段もコットン100%の紙の割には手頃な価格で初心者には嬉しいと思う。
 昨日キャンソンの最高級紙ヘリテージのCold Pressed(細目)を注文した。キャンソンがアルシュに対抗して作った紙だ。謳い文句が良い。「最高級の手漉きの紙に匹敵する甘美な手触りの紙肌」。そこまで言うなら、使わないと!
ただし、値段もアルシュと同じで半端がなく、初めて買うには多少の勇気が必要なのだが、ちょうど木枠やキャンバスを頼むついでがあったので、どさくさに紛れて頼んでしまえばいけるんじゃないかと。
 
 怒りが爆発しそうになるとこの直木賞作家は夫に手紙を書くらしい。「怒りの手紙」だ。
 
 怒りのレベルが大きければ大きいほど、現場では口に出さず、多くの場合は手紙を書く。怒りの手紙はおすすめです。書いているうちに、「自分の怒りの、本当の原因」がわかったりするから。〈注2〉
 エッセイを書く頃合いとスルーできない「むかっ」や「ピキッ」が重なると、怒りに任せてパソコンに感情を破裂させる事がある。ところが推敲の段階では冷静なので、その話題がひとつも面白くない。で、結局また別の話を一から書かねばならず、また「むかっ」とするのだ。

2024年1月30日 齋藤 眞紀

 
 


注1、2 「怒りを歌う」井上荒野(東京新聞1月26日付夕刊)
補注 ウォーターフォードの中目もキャンソン・ヘリテージの細目もどちらもCold Pressedで同じ、Hot Pressed(極細/細目)とRough(荒目)の中間にあたる。
https://www.e-maruman.co.jp/lp/canson/heritage/
ちなみに、アルシュ(仏製)が自他共に認める水彩紙の最高級品。セザンヌは版画用紙で有名なドイツのハーネミューレーが作った高級水彩紙。他にファブリアーノ(伊)、ラングトン(英)などがある。日本のミューズもランプライトというコットン100%の水彩紙を出している。 
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Um Cão no Meio do Caminho〈注1〉

開港記念広場

2024年1月

 
 北風が少し強めに吹いてはいるものの、朝からすっきりと晴れた。家の近くにある江ヶ崎の跨線橋からは、雪を冠り真っ白になった富士山を拝むことが出来るだろう。
正月といっても特にする事がない。強いて言えば昼に雑煮を作るくらいで後は仕事をしている。
 今年は年賀状の配達が早かったので、原稿を書く手を休めて届いたばかりの賀状を捲る。そんな年齢でもないのに、今回で年賀状を止めるというのがちらほらあって、葉書も確か85円に上がるらしいから、それもわからないではない。正直年賀状は面倒だとも思う。…がしかし、シルクスクリーンで絵柄を刷り、筆で宛名を書く自分のようなアナログ派でもないだろうにとも。
年の瀬に夜の街をあてもなくうろついた。あてもなくと書いたが、スケッチのネタ探しなのでまるであてがないわけでもない。でも、こんな風に時間を気にせずふらついたのはいつ以来だろう。もう記憶を辿ろうとしても辿りきれないくらい昔のような気もする。
 横浜海岸教会を背にして大桟橋を望むと、宵闇で街の輪郭がぼやけ、街灯とビルの明かりの連なりだけが際立って見える。もっとも、乱視が酷く朧げに見えるのはその所為かもしれないのだが、逆にそれが面白い。
しばらくの間、人気の絶えた開港記念広場のベンチでぼんやりとこの光景を楽しんでいると、抽象とも具象とも似つかない曖昧模糊とした絵、ただしあくまでも風景画としてのリアリティーを失わない絵がもし描けるのだとしたら、それは最高だろう、ふと、そんな思いが頭を擡げてくる。
 
 ポルトガル語の授業で、本をデジタルで読むか紙で読むのかという話になった。
 増えすぎた本の処遇に困り一時期Kindleを使ったこともあったが、それも一年くらいでまた、紙の本に戻ってしまった。
 Não era a mesma coisa.(何かが違う。)授業ではその理由をうまく説明できずに漠然とした答えでお茶を濁してしまったが、後で印象に残った箇所を振り返るときに、紙の本だとなんとなく勘で見つけることができるのだが、Kindleだとまるで見当がつかないからだと本当は言いたかった。
 人間の脳は「空間的な手がかりがあると記憶した情報を取り出しやすくなる」ものだという。つまりデジタル本だと空間として場所を認識できないから探せないのだ。〈注2〉
 本を探すときもそれと似たところがあって、思いがけない本と巡り会うのはネットではなくやはり本屋だったりする。リスボンの本屋で、平積みされた本の山を眺めているうちに、思わず一冊の本から目が離せなくなった。水彩で描かれた後ろ姿のラフェイロ・ド・アレンテージョ、カスロンのフォント(書体)で “Isabela Figueiredo Um Cão no Meio do Caminho” 訳すと『イザベラ・フィゲイレド 散歩の途中で出逢った犬』。〈注3〉
 物語は過去(1974年~)と現在(2018年~)が交差しながら進むが、あらすじを書くと長くなるのでかいつまむと、ある日、学校帰りのJoséジョゼ(1974年)が大怪我を負ったラフェイロ犬を家に連れて帰り命を救うのだが、間もなく両親を失うことになる子供の孤独をこの犬Cristoクリストが支える事になる。そして、大人になったジョゼ(2018年)と深い関わりを持つ、犬嫌いで周囲に心を閉ざしたMatadoraマタドーラ(殺し屋)と呼ばれるVizinhaヴィジーニャ(隣人)〈注4〉がいつもの散歩の途中、Cristoと瓜二つのラフェイロ犬と出会い、マフラでひとり暮らしをするジョゼの祖母共々一緒に暮らすことにする。ジョゼの祖母がその犬をRedendorレデンドールと名付けるのだが、Redendorは救世主という意味なので、実はCristoと同じ。おそらくこのRedレッドが彼女たちの孤独を慰めることになるのだろう。〈注5〉
物語はこう締め括られている。
 
Olhei para ela, sorri, e pensei que ninguém entra na nossa vida por acaso.
 

2024年1月1日 元旦に 齋藤 眞紀

 
 
 


注1、3 “Um Cão no Meio do Caminho”『散歩の途中で出逢った犬』Isabela Figueiredo(Caminho / Leya 2022)直訳すると「道の途中の犬」なのだが、depois de você se ir embora, fui dar uma passeio. O caminho do costume. … Apareceu-me este cão no meio do caminho.(あなたが帰った後、散歩に行き、いつもの道の途中でこの犬が私の前に現れた。)とあるので、『散歩の途中で出逢った犬』と訳した。
Isabela Figueiredoイザベラ・フィゲイレド 1963年モザンビーク生まれ、1975年に来葡。リスボン新大学を卒業。Diário de Notíciasの記者、教師を経て作家活動に入る。著作は他に“Conto É Como Quem Diz”、“Caderno de Memórias Coloniais”、“A Gorda”。
注2 酒井邦嘉 「想像力の余地」が大切(考える広場ーアナログの底力は?/東京新聞2023年12月27日付朝刊)
注4 Vizinhaは隣人の女性という意味。本名はBeatrizベアトリス。
注5 Mafraマフラ、リスボン北西28kmのところにある小さな町。世界遺産の修道院がある。