2004年11月の活動報告

11月29日(月) 
 小雨のそぼ降る中、昨夜、病が急変してなくなった事務局スタッフのK君の葬儀のため、朝9時前にN君、Hさんと与板に向う。9時半からの葬儀には中学からの同級生も含め、たくさんの弔問客がセレモニーホールを埋めていた。私は同級生を代表して10分ほど弔辞を読ませていただく。霧雨で少し肌寒い中で彼を見送ったが、もう、二度とあの声が聞けないと思うと、雨がいっそう身にしみた。
そのまま同級生が経営するログハウスの喫茶店で皆でコーヒーを飲んで帰る。午後からいつものように仕事。
(2004.11.29)

11月28日(日)
 早朝、親戚の方より突然の電話で、小学校からの同級生で、最初の市議選から私の後援会スタッフとして同級生を中心に票の取りまとめをしてくれていたK君が昨夜、入院先の病院で亡くなったと言う。今年6月から体調をくずして日赤病院に入院していたが、症状が急変したとのことだった。ようやく自分の病名がはっきりして、難病のひとつであることも判った。しかし容体は快復に向っており、来週にも 退院したいと話していた矢先だっただけに、にわかには信じられなかった。体力の低下で敗血症を併発したという。つい2週間前には病院を抜け出して、わざわざ私のところに寄り、自分の住む与板町の合併問題について熱っぽく語っていたばかりなのに…。早速、午前10時に事務局スタッフのK君とお参りに行き、お悔やみを言う。
 夕方4時からギタリストの畠山さんのスタジオ開きに招かれ、平和の森コンサート実行委員会のメンバーらと参加。Kの死で少し気持ちも落ち込んでいたが、暫く前から考えていたサックスの演奏を人前で初めて披露。Kのために「ダニーボーイ」を吹く。
夜、同級生で近所に住むS君と通夜に参列。他にも同級生がたくさん参列しており、一緒に夜伽に呼ばれる。9時まで居て帰宅。是非にと頼まれた弔辞の原稿書きを夜中の3時までかかって仕上げる。
(2004.11.28)

11月25日(木) 
 朝、9時半から市役所議員控え室にてクラブ会議。この度の栃尾市からの合併申入れに対する考えを協議。栃尾市の住民投票の結果は合併賛成が65%に達したが、以前から反対の立場にある議会の態度が、依然としてうやむやになっている点が問題とし、「継続審議」とすべき考えで一致した。10時半からの議員協議会
では同じく和島村からの合併申入れに関する経緯の説明が理事者側からあった。11時半からの議員協議会の前に少し時間があったので、国際文化課と福祉相談課に顔を出し、それぞれ課長と面談。午後1時から、間に四つの各常任委員会をはさんで、臨時市議会。本会議では懸案の栃尾市との合併問題に対し、「栃尾市民の意向を極めて重く受け止めつつも、栃尾市議会の態度に疑念が残る」との意見表明の後、総員起立の全会一致で「継続審議」と決定した。栃尾市議会にはぜひ合併への態度を早急に明確にされることを望みたい。3時半に本会議が終了し、引き続いて4時過ぎまで克雪防災対策特別委員会が開かれ傍聴する。その後、5時近くまで12月議会対策についてのクラブ会議。我がクラブとして今回の中越地震に関する一般質問を代表でやることになり、各議員から問題を提起しあう。
一旦自宅に戻り、オパールを家に置いてから折り返し6時から駅前の飲み屋でプラスワンの事務局会議と飲みながらの情報交換会。先月23日の震災以来、初めての顔合わせとなり、また震災以来の初めての町での飲み会となった。地震でヒッソリとしているものと思っていた繁華街は、意外と人の流れがある気がした。考えてみれば市外からたくさんのボランティアや災害関係者の方々
もおられ、少しは町に賑わいもみられるのかも知れない。
(2004.11.25)

11月24日(水)
 午前中は仕事。午後2時、障害者生活支援センター(長岡福祉協会運営)のT係長とYさんに、わざわざ自宅までお出でいただき、中越地震当時から今日までの、障害者の抱える問題や、これまで感じてきた課題などについてお聞きした。
 夜、Iさん宅で今回の震災に対する市民復興コンサートの下打ち合わせをする。ギタリストのHさん、合唱団団長のNさんやMさん、それにピアニストのSさんらが集まり、来春4月の開催に向けて話し合った。名称は「震災復興音楽祭」(仮称)で、プロ・アマを問わず広く市民に参加を呼びかける予定。屋外でも様々なイベントを同時開催して、元気の出る音楽祭にしたいと思う。
(2004.11.24)

11月23日(火)
 早朝はかなりの冷え込みだったが、日中はポカポカと暖かくなり、10月末の陽気となる。朝、地震以来はじめてオパールの好きな信濃川堤防まで散歩に出かける。その帰り道で長岡ランナーズのSさんに出会い、暫く立ち話をする。ランナーズでは有志を募って毎週日曜日に、こんどの地震で最も被害の大きかった川口町 田麦山地区にボランティアに行っているとのこと。同地区では毎年6月に恒例のマラソン大会を開催しており、スポーツが結んだ応援の輪と言うことになる。今日は娘の紹介で、NHK交響楽団のチェロ奏者 銅銀久弥氏から返事のメールが入る。何日か前に来春予定している震災復興のための市民音楽祭に来ていただけるかどうかの打診をしていたのだが、快く引き受けていただけるとの返事に感激。
(2004.11.23)

 11月21日(日)
 予報に反して日中は晴れて穏やかな日となる。事務局スタッフのK君に頼んで午前中、地震で被害を受けた視覚障害者や、特に被害の大きかった山通り地区の皆さんを訪ね、様子を伺う。家屋被害もさることながら、少し落ち着いてきた現在では、返って拭いきれない精神的な影響が残っているようだ。
家が15度も傾いているというSさんは、「住めるだけでもいい。元気でいればサ。」と笑って話してくれた。みんな、無理しても頑張っているなあと感じて帰宅。
 妻が一人で地震ではがれた風呂やトイレのタイルを貼って修理。ホームセンターで接着剤やタイルの目地つめコーキング剤を買ってきてコツコツやっていたが、応急復旧としては上々の出来だ。
(2004.11.21)

11月20日(土)
 もうすぐ最初の地震から一ヶ月になろうとしている。揺れも徐々に治まってきているこの頃だが、最近、大地震再来の噂があちこちで、もっともらしく流れている。気象庁ははっきりと否定しているが、科学がどんなに発展しても、社会が混乱したときには、この類の流言蜚語は必ずあるものだと痛感。
 近頃、最近購入した視覚障害者用CD読書機のプレックストークというCDプレーヤーで暇を見ては本を読んでいる。器械は単行本の形をした録音・再生機で、点字図書館から借りる朗読CDが手軽な検索方法で簡単に読め、また、CDへのステレオ録音も可能とあって、私は埃をかぶった古いLPレコードを持ち出してきては、CDに録音し直して楽しんでいる。
 そのプレックストークで最近、渡辺正二郎・著「田中眞紀子はなぜ人の心をつかむのか」を読んだ。本は前編、眞紀子礼賛の応援歌だったが、最後に印象に残る部分があった。眞紀子の父、前総理大臣の角栄の母 フメの言葉がそれだ。「総理大臣がナ
ンボ偉かろうが、あれは出稼ぎでござんしてね。それはアニ(角栄)もそう思うとります。政治家なんて喜んでくれる人が7分なら、怒ってる人も三分はある。それを我慢しなきゃ。人間、棺桶に入るまでいい気になっちゃいけん。」。私も政治に携わるものの一人として、決して政治に深い関わりがあるとは思えないこの母フメの言葉が強く印象に以前新聞のコラムで呼んだのだが、田中角栄は下のような詩を好んで書いたと言う。「岩もあり 木の根もあれどさらさらと たださらさらと水の流るる」田中眞紀子の人間性を追ってみると、そこには親の生き方が見えてくる。
(2004.11.20)

 
(2004.11.19)

11月18日(木)
 午後から市役所大会議室にて議員協議会。会議ではこの度の中越地震について森市長が、「今回の震災を地盤災害と位置づけ、国に対して新たな特別措置法を申し入れている」と説明。長岡市の犠牲者は死者6名、負傷者2100名で、火災の発生件数は5件とのことであった。また、ゴミの量は通常の5倍にも上り、設備被害の大きかった隣の小千谷市のゴミも本市で受け入れている。
復旧状況については仮設住宅を840戸建設し、今月末から入居を開始したい。併せてデーサービス施設の建設も予定している。そして本市への義援金は約2億円に達するとのことだった。
 議員協議会ではこの他、先に行われた隣の栃尾市の住民投票の結果を受け、合併申入れの意向があったことが報告された。今回の議員協議会を受け、25日には臨時市議会が開かれ、議会審議を経て承認されるものと思われる。
(2004.11.18)

11月17日(水) 
 午前中、今回の大地震のデータ整理やたまっていた原稿書きをする。午後1時より半日、時おり降る小雨の中を議員団で市内の被災地視察。滝谷町の了明寺(りょうみょうじ)の山崩れ現場を皮切りに、高町団地や中沢町、駐車場までが崩落した市営スキー場、天井が落下した市民体育館などを視察。中でも地震で家の形をそっくり残したまま、2メートル近くも沈下した栖吉町の民家などは筆舌に尽くし難い。まさに今回の地震が「地盤災害」であることの象徴のようだ。災害に対する国の補助金が、このような「地盤」まで適応されないのは極めて問題で、今後の議論の的となると思われる。5時解散。帰宅し資料整理。
(2004.11.17)

11月16日(火) 
 今日もまだ震度2から3程度の余震が続く。朝、町長に会うために、妻の運転で14kmほど離れた隣町で、私の実家のある与板町へ。午前10時から山崎町長と40分ほど役場の町長室で面談。高橋副町長にも同席してもらい、同町と長岡市との合併問題について私見を伝え意見交換。先日、法定協を設置して議論を続けてきた出雲崎町、和島村との合併問題が破綻し、取り残された形になっている同町は、現在、来月にも合併に対する住民投票の準備をすすめている。これに対し私は、町長がこれまてすすめて来た二段階合併のうちの第一段階が破綻した以上、一刻も早く第二段階である長岡との合併を高率で批准していただきたい。そのためにはぜひ首長の考えを明らかにし、町民の総意をひとつにするよう努めていただきたい。自立の道を選択することは極めて大きな困難を伴うものであり、これ以上、町に混乱としこりを残すことは避け、スッキリとした形で町の将来をリードしていただきたい。私も及ばずながら応援させていただく旨をお伝えする。私の感触では町長の腹は既に固まっているように思えた。
 夜、先月13日以来、一ヶ月ぶりにサックスのレッスンに出かける。

(2004.11.16)

 11月15日(月)
 新聞によると昨日の高校駅伝の県大会で、我が長岡の中越高校が優勝。暮れの都大路を「中越」の看板を背負って走る。被災地を勇気づけるためにも全力で頑張って欲しい。また、昨日は皇室の礼宮様の婚約相手のニュースなどのホットな話題で、震災に明け暮れた昨今の、文字どおりホッとする話だ。
 今日は朝からずっと方々に電話かけ。昨日、初挑戦で柏崎市長に当選された会田洋さんへのお祝いの電話かけから始まり、市の北谷合併理事や久住商工部長、S県議、隣街のS町会議員ら、それぞれに電話で用件を済ます。電話かけをしている間にも時おり震度3程度の余震が来る。
(2004.11.15)

11月14日(日)
午前中は少し雨まじりの天候。今日は新潟市で視覚障害者の和太鼓チーム「江陵会」の月一回の練習日だが、欠席して自宅待機をすることにした。
 朝、近所に住む同級生のS君が来て、世間話やら今回の地震に関する話、長岡の合併の話などする。自宅にて電話であちこち連絡をとったり、たまっていたメールの返事書きをする。
 妻に見てもらった新聞チラシによると、大手建築業者による住宅相談会が、ハイブ長岡などで大々的に開かれているようだ。住宅診断から銀行融資まで、全てを一手に対応したものだが、別に中央の大手業者を目の敵にする訳ではないが、そうでなくて
も普段から大工や左官など、地元業者の仕事が無くなっているところへ、一気に来た仕事で、手が回らなくなった仕事を、更に大手に持っていかれることを心配している。早急に地元業者の対応策も考えなくてはならないと痛感。明日、関係者に相談してみたい。
 夕方、地震発生以来、控えていたテナーサックスの音出しをしてみる。ワクワクしながらケースを開け、3週間ぶりにソッと吹いてみたが、どうやらまだ少しはまともに音が出るようだ。パソコンに向っていると、夜半近くにまた震度3程度の余震。収束に向っていると喜んでいたが、これでまた振り出しに逆戻りのようだ。
(2004.11.14)

 11月13日(土)
 今日で地震発生以来、ちょうどまる3週間になった。あたふたとどことなく落ち着かない日々を送っているうちに、11月も半ばとなり、紅葉の季節も過ぎ、もう雪囲いの時期となった。
 午前中、自宅で治療院の仕事。震災の復旧対策も着々とすすんでおり、長岡市の仮設住宅対策も市内7ヶ所で880棟の建設が進められている。また、今日から被災者向けに市内12カ所で住宅再建支援説明会も開かれている。
(2004.11.13)

11月12日(金)
録音編集の仕上げをし、9時過ぎに市役所へ。一階のホールには今日から開催された被災者再建支援相談室が設けられ、大勢の人が訪れていた。中でも仮設住宅への申し込みが多いかと思われるが、長岡市では要望に沿ってできるだけ知り合い同士が近所に住めるようにしたり、冬に向けての断熱設備や夏のエアコンなども設置するという。細かな点まで配慮している事を評価したい。そのまま1階にある福祉相談課を訪ね、佐藤課長と障害者の被災状況と市の耐応について聴取。また、建築住宅課では空いた市営住宅を避難者に早期に貸し出すよう申し入れる。市役所は地震で三つのエレベーターが全て使えないため、オパールと階段で6階にある議会事務室へ。いつもの三つの委員会室が災害用の臨時の事務室となっているため、4階の大会議室まで下り、11時からの議会運営委員会を傍聴。終了後、議員控え室にてクラブ会議。来年4月からの合併以降の議会運営についての議論。妻の迎えで12時過ぎに帰宅。
(2004.11.12)

 11月11日(木)
 朝、治療院の仕事。今年は早々とシルバー人材センターから庭木の囲いに来てくれる。今年は地震の影響で毎年行っている所でも行けない所が多いという。私は昼休みからずっと以前から頼まれていた震災に関する視覚障害者向けラジオ番組の録音編集作業に集中。夕方、同級生で後援会運営も熱心に応援してくれたK君が思いがけなく来訪。今年6月から病機で市内日赤病院に入院し、病気と闘っているが、重湯や流動食で声に力が無いのが少し心配だ。また、電話では住宅問題について相談。今回の震災で入居しているアパートが損害。市営住宅入居に関する相談を受ける。
 現在の避難者数 長岡で700人余、全県では20市町村1万2千人となる。
(2004.11.11)

11月10日(水)
 気温が22度近くも上がり、暖かな一日となる。 今朝も未明に震度5の強い地震があり、熟睡しているときにユサユサと揺り起こされる。真夜中ということもあったが、毎日のように来る大きな地震に日常化して誰も外には飛び出してはいないようだ。近頃は地震が来てもそのままで辺りを見回して、自分で震度を推し量る余裕さえ出てきた。それでも耐震診断で赤い紙を貼られたお宅
は強い緊張を感じているに違いない。まだ、県内でも22市町村で1万5千人が避難所などに非難しておられ、そのうち3200人がクルマの中で過ごしているという。
 今朝も自宅で単身で赤い紙を貼られた家に住んでいる、視覚障害者のT君や、前に相談のあった方との電話連絡をする。日中、電話で市の児童福祉課長、福祉相談課長らに、保育園や障害者の避難状況などについて現在の状況を聞く。
 元のNTT時代の仲間で、一緒に視覚障害者の全国ネットを作っている静岡のSさんよりお見舞いにみかんが送られてくる。午後、地元の大島コミュニティーセンターで、地元の大島連合町内会の江口会長とお会いし、1時間半にわたって先日学区の町内会全体で行った震災被害アンケートの結果と要望を聞きながら意見交換(住民は1万2千人)。
(2004.11.10)

11月9日(火)
 震災の中で長岡の風俗や文化までが変わりつつある。大きくはないが市内にいくつかある温泉施設のうち、先日の蓬平温泉に引き続き、今日は大きな被害の出た東山地区にある成願寺(じょうがんじ)温泉の廃業がニュースで流れた。成願寺温泉は明治3年の創業で、蓬平温泉と並んで長岡の長い歴史と文化を築いてきた。震災で建物やエレベータなどの設備がメチャメチャになり、再建には相当の金額がかかるという。不景気に加えて今回の災害のダブルパンチが今回の結果になったものだが、どちらの温泉も私にとってもたくさんの思い出があり、無くなるのは本当に残念だ。蓬平にしろ成願寺にしろ市民温泉リゾートとして、みんなでなんとか再建できないものだろうか。
ところで、昨日、隣の栃尾市の合併に関する住民投票の結果が出た。一昨日の7日に実施されたもので、投票率は72%で、そのうち我が長岡市との合併に対する賛成票が65%と過半数を大きく上回った。このような大災害の中で出された結論だけに栃尾市民の意向を重く受け止めたいと思う。
 日中、時間をみて全国の視覚障害者向けのラジオ放送の番組作りをする。震災に際して視覚障害者の避難の様子をルポと私のコメントでまとめてみた。
(2004.11.09)

11月8日(月) 
 日中22度を越す暖かな一日。このところ落ち着いていた地震だが、その期待を裏切るかのように午前11時過ぎにまたもや強い揺れが3〜4回も立て続けに来た。本当に果てることの無い震災は、精神的にも人間を悩まし続けている。
結局、今日は一日中揺れが止むことは無かった。自分のベッドのある部屋で大きなゆれを経験した盲導犬のオパールは、入り口のドアからなかなか部屋に入りたがらない。 
 今日は一日を通じて震災復興に関する多くの相談が電話であった。通っていた保育園が地震で使えなくなり、暫く近くの園に送迎しなくてはならなくなったが、その園はいつ頃から再開されるのかといった問題や、地震で大きな陥没被害が出た私道の復
旧を市道と同じように復旧できないかなど、災害復旧に関する問い合わせが多かった。
(2004.11.08)

11月7日(日)
 今朝は盲導犬のオパールと一緒に、普段はあまり歩かない道を久しぶりに散歩。大きなカラオケボックスの店の脇を通り、NTT前から住宅街に入る。あちこちの町内でクリーン作戦と称しての清掃が始まっていた。奥さん方やスコップを持った家の方と立ち話。
 朝食を済ませ、電話で見舞いの電話かけをしながらNHKの日曜討論「震災復興」についてのテレビを見る。その後、昼近くになって日ごろ親しくしていただいている
隣町内の清掃慰労会に出席。乾き物をつまみに軽く飲みながら、今回の地震を振り返り、お互いの無事を確かめ合った。
 午後から先日の長岡高校での活動に引き続いて、今日は高齢者センター「けさじろ」に鍼治療のボランティアに行く。ここは避難されている山古志村の村民のうち、比較的衰弱している方や妊婦、それに子供たちなど160人ほどが避難されている。治療のボランティアも回を重ねるたびに多くなり、今日は県の鍼灸マッサージ師会のY副会長をはじめとして、市内外から20人以上の会員が参加された。
治療をしながら色々と話をしたが、特に印象的だったのが住宅の問題だ。山には帰りたいが無理かもしれないからこれから仮設住宅ができる長岡ニュータウンに村民みんなが引っ越して家を建て、そこに新しい「山古志村」を作ろうかなどと本気で話して
おられたこと。あるおじいさんは私の質問に対して、大好きな晩酌だが集団生活をしているのでみんなに迷惑をかけないよう、もう何日も酒は飲んでいない。飲みたいと思うがみんなの和を乱さない事のほうが大切だと言っておられたことが脳裏に焼きついている。
(2004.11.07)

11月6日(土)
 中越地震発生以来、今日でちょうど2週間目の朝を迎える。今朝は未明から数回の地震。天皇皇后両陛下が長岡や小千谷など、被災地を見舞われるためヘリで来岡。
被災状況に対する県の調査がようやく入り、今日発表されたが、それによると被災者にとっての最も大きな課題は避難生活のプライバシーの確保、そして子供の健康管理だった。
(2004.11.06)

10月5日(金)
 後片付けの手伝いに帰ってきていた下の娘が午前中に東京へ帰る。お昼前に地元の大島中学校とコミュニティセンターへ行く。小、中学校は午前中で放課になったが、死んだように静まり返っていた校庭にも、ようやく賑やかな子供たちの声が帰ってきた。職員室で校長先生や職員の皆さんにお礼の挨拶。先生方からも連日、二人ずつ交代で献身的に避難所のお世話をしていただいた。校長室では人間の背ほどもある大型の耐火金庫が、地震の衝撃で30センチメートルも前にずれ出し、その跡もまだくっきりと残っていた。
 避難所に行ってみると、今日の午前中でコミュニティセンターに残っておられた10人ほどの方も皆自宅に戻られ、この地区の避難所はすべて閉鎖したとのこと。片桐防災センター長の話では、今後は人間をまだ復旧のすすんでいない山通りに多く派遣し、集中的な支援を行う事になるという。長岡市内ではまだ1千世帯、7千人の人が避難生活を余儀なくされている。テレビのニュースでは長岡市内でも最も大きな温泉地である蓬平温泉の廃業が決まり、従業員の解雇が報道されていた。ただでさえ不況で
失業率が右肩上がりなのに、今回の震災で失業が更に増大するものと考えられる。雇用問題も復旧後の大きな課題となる。
 夕方、札幌から盲導犬協会のK先生が、震災後の盲導犬の様子をチェックしに来られる。地震の際の極端なおびえ方は、どの盲導犬にもあるようで、動物的な感とか本能とかもさることながら、人間の動きに対して不安が加速するのだろうとの事だ。オ
パールも暫くは地震発生当時に居たいつもの部屋には怯えて入りたがらなかったが、今は以前のようにお腹を上にして、自分のベッドで仰向けにくつろいでいる。
歩行状態をチェックしていただきながら、K先生をバス停までお送りし、帰りにそのままオパールと散歩していたら白鳥の群れが北の方向から南の空に向けてクークーと鳴きながら飛んでいった。今年見た初めての白鳥の飛来だが、地震でどんなになっても動物の本能で忘れずに帰ってきてくれ、季節は確実にめぐっているようだ。
(2004.11.05)

11月4日(木) 
今朝もいつものようにオパールと歩いて避難所のあるコミュニティーセンターへ。これまで体育館に居た方々は全て和室に移り、今日はわずか5人が避難されているだけだった。昨日閉鎖された地元の防災センターの片桐センター長もこちらに移動してこられ、金原コミュニティーセンター長と私の三人で事務室でのお茶飲み話をする。市職員の片桐さん、地域住民を代表する形の金原さんが、それぞれの立場で今回の災害について、行政の指導力やリーダーシップ、それに対する住民の自主防災意識や行動について熱い議論となった。今後の大きな論議の的となるだろう。
 長岡市では今日から学校が再開された。子供たちが12日ぶりに登校したばかりの8時57分、また震度5強の地震があった。しかし今日一日を通しては8回と、ずいぶん少なくなっている。避難者も新潟県全体で3万4千人、長岡市内でも8千人となった。そして新幹線も今日から新潟と長岡までの間が再開し、被害の深刻な所を除いては着々と復興がすすんでいる。私のNTT時代の仲間である、静岡のSさんの23歳の息子さんも昨日からボランティアに見えている。長岡高校で避難されている山古志村の人たちのために、物資の運搬などで一日汗を流してくれた。
 午後、視覚障害者の週刊雑誌「点字毎日」の原稿を書き上げる。(「ウィークリー八方台」に掲載)
(2004.11.04)

11月3日(水) 
 文化の日の休日、暖かな朝を迎える。いつものように中学校の脇を通り、避難所に向ってオパールと歩いていたら、中学校前の道路で知り合いの方が落ち葉掃きをされていた。明日から学校も再開され、街の風景も次第にもとの平穏な姿を取り戻しつつある。コミュニティーセンターでは避難されている方が今日はもう2〜30人とずいぶん少なくなっていた。避難所には広島県三次市(みよしし)から5人の市職員が見えていて、あれこれ情報交換をする。宿泊は陸上競技場前にテントを張り、風呂は競技場内のシャワーで済ませていると言う。今日も午前10時頃に数回の地震があったが、大島地区防災センターの片桐センター長との話では、今日で大島小学校に設置された防災センターは閉鎖され、避難していた方々も全て帰られたとのこと。災害対策本部と電話で話したところでは市内でもここが最も早いとのこと。他の地域に比べ、それだけ被害も小さかったのだろう。
 日中、札幌の盲導犬協会のユーザーやワンボイスの会の皆さんからレトルト食品などの支援物資が段ボール箱いっぱいに送られてくる。暖かなものがこみ上げてきて、早速電話でお礼。
午後から市内外の施術者の有志12人が集まり、長岡高校や大手高校の体育館に出かけ、避難されている人たちに対してボランティア治療をする。ここは村の全てが避難している山古志村の方が殆どで、長い避難生活で疲れた体をほぐしてもらおうというも
のだ。他にも日赤救護班が活動しており、市職員やたくさんのボランティアの皆さんの懸命な活動が目立つ。私は藤井久美さんという73歳のおばあさんを治療。久美さんは落ちてきた屋根の下から命からがら這い出してきて、その時に臀部を打撲したという。痛々しく黒く変色した患部にはり治療をする。今日は村にとり残されていた牛や犬たちもヘリコプターで長岡市に搬送されたと聞く。避難所で世話役をしていた同じ村民の星野さんや、村役場の職員の方々との話では、昨日は久しぶりにヘリで村に帰った。家は崩れた道路と一緒に押しつぶされ、土砂崩れによる芋川の氾濫で村は水につかっていた。だけど、木々はいつもの年のようにきれいに紅葉が始まっていた。あんな事があっても季節だけはきちんとやって来ているんですね。」と話し、できることなら早く帰りたいとも言っておられた。
 今日、宮城県から支援物資の畳2600枚が届いた。寒くなる一方で体育館の床は冷たい。宮城県の人たちの暖かい贈り物が心まで温かくしてくれた。

(2004.11.03)

11月2日(火)
もう地震の心配は少なくなったが夕べは東京から帰った娘たちとオパールもまじえ、4人と一匹で一緒に雑魚寝。朝、雨で避難所行きを断念。避難所の金原センター長に電話で様子をお尋ねすると、夕べは30人程度でずいぶん少なくなった。後は高年齢の方やグループホームにいた知的障害の方々が残っておられ、今後、これらの方は長期化する見通しだとのことだ。震災直後からこの大島コミュニティセンターに避難されていた山古志村の人たちが昨日、市役所本庁舎前の教育センターに全て移動され、今日の避難所は反対に寂しささえ感じるほどだ。
 今日は治療院の仕事をし、そのあい間に共同通信の記者からこの度の震災と視覚障害者の状況についての取材を受ける。今日は少し揺れも多いようで、40分ほどの取材の間にも震度3程度の揺れを感じる。
 午後、県の障害福祉課、避難所全体をまとめている市の福祉総務課、市のボランティアセンターが設置されている社会福祉協議会、県と市、それぞれの視覚障害者福祉協会の会長さんらに電話をし、障害者の避難状況についての情報を得る。あらゆる情報をまとめても障害者の被災や避難者はさほど多くは無いようで、10月30日現在の調べでは知的障害者が15名、車椅子の方が7名、車椅子以外の肢体障害者が2名、聴覚障害者が4名、そして視覚障害者が1名であることが判った。避難所ではどのような生活をしておられるのか、今後はその実態を追跡していきたい。なお、県の調査は明日3日から入るようで、現在のところ県全体の把握はまだ全くされていないようだ。
 昨日東京から帰った二人の娘たちが、午前中は自宅の片づけを手伝い、午後から友人宅の片付けに出かけた。高町にあるその家の周辺の被害の大きさに驚いて帰ってきたようだ。
 夕方、避難所に避難されている視覚障害者の息子さんから、今後の支援をしっかり頼む旨の電話を頂く。
(2004.11.02)

 11月1日(月)
 最低気温が10度以上と、厚着をしていると汗ばむほどの陽気になる。ポツリポツリと小雨のあたる道を10分ほどかけてオパールといつものように歩いて避難所のコミュニティーセンターへ。途中で中学校のグラウンドの脇を通る。誰もいない校庭は死んだように静かだ。23日の地震以来、にぎやかな子供たちの声が
聞こえなくなって久しい。今日の夕方には学校再開について教育委員会で話し合われると聞いているが、一日も早く校庭に子供たちの声が戻ってくることを願っている。避難所の金原センター長との話の中でも、この事が話題になったが、同時に学校再開後の児童館の運営についても話題になった。子供たちが放課後、センターにある児童館に来ても遊ぶところが限られていて、行く所が無いという。
 午後、事務局スタッフのY君に頼んで、今日も被災地へのお見舞いを兼ね視察をする。長岡から20キロほど離れた隣市の小千谷市まで足をのばし、従業員1000人以上のサンヨー電子労組のO委員長、K事務局長とお会いしお見舞いをする。小千谷市は震源地に近く、長岡市よりも大きな被害を出している。周辺道路はいたるところ陥没していたが、広大な敷地面積を有するこの会社の構内や建物にはさほどの被害は無かったようだ。しかし薬品などの液体や器具が散乱しているため、暫くのあいだは従業員でも厳しいチェックを受けて中に入らねばならない。私たちも入り口の警備員に趣旨を告げ、門の外での挨拶となった。ここでもけが人は無かったとのこと、20分ほど立ち話をして帰る。
 その後、小千谷市に近い妙見や六日市町を再び回り、脱線した上越新幹線や被災状況、そして電話線などの復旧作業などを視察する。また、長岡市内でも被害の大きかった山通り地区や、その周辺に住むKさん、Sさん、Yさん宅などのお見舞いに伺う。まだ避難されているのか留守宅も多く、玄関には建物の警戒度を示す黄色い紙が貼られていたお宅もあって、住み慣れた家の変わり果てた姿を見る気持ちがしみじみと察しられた。その周辺はまだガスも水道、そして下水道とも復旧せず、あちこちでクレーン車などの復旧作業の音がにぎやかだった。
 午後、東京にいる二人の娘が長野経由の列車を乗り継ぎ帰宅。
(2004.11.01)

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